肉体の悪魔 ラディゲ(163)

肉体の悪魔 (光文社古典新訳文庫)

肉体の悪魔 (光文社古典新訳文庫)

 第一次大戦下のフランス。パリの学校に通う15歳の「僕」は、ある日、19歳の美しい人妻マルトと出会う。二人は年齢の差を越えて愛し合い、マルトの新居でともに過ごすようになる。やがてマルトの妊娠が判明したことから、二人の愛は破滅に向かって進んでいく……

 まさにこの通りの話なのだが、作者の人間心理に対する洞察力が尋常ではない。非常に冷徹で突き放しているのだが、論理的で的確、真理を突いた言葉がいくつも並べられている。
 特に僕とマルトが夜のパリを彷徨うシーンはあまりに悲しく、美しいんですよ。
 タイトルは確かに「魔に憑かれて」の方が格好いい。
 本当にこのレイモン・ラディゲと言う作家は圧倒的な天才だったのだと思う。何しろ17歳でこれを書いたのだ。ありえん。文藝の芸術性を追求する全ての作家はこの人の前に平伏さなければならないと思う。
 もう私は純文学小説の新人賞に応募することはやめる。このような天才が既に世界に存在していたのだから、もうこれ以上芸術としての小説は不要だ。芸術は既にここに完成した。

 マルト! 死のあとには何もないことを願っているのに、僕の嫉妬は墓のなかまできみを追いかけている。自分のいないパーティで愛する人が大勢のとり巻きに囲まれているのが耐えがたいのと同じことだ。僕の心はまだ未来のことなんか考えない年齢だった。そうだ。僕がマルトのために望んでいたのはすべてを消してくれる無だ。いつの日かまた一緒になれるもうひとつの世界なんかじゃない。

「……わたしが泣いているのは、あなたより年をとりすぎているからよ!」
 この愛の言葉は子供っぽいせいで、いっそう気高かった。そして、今後僕がどんな情熱を知ることになっても、年をとりすぎているからと涙を流す十九歳の女性を見ることほどすばらしい感動を味わうことは二度とないにちがいなかった

「僕を捨てるって、もっと何度もいってくれ」
 そういいながら、僕は息を切らせ、マルトの体を折れるほど抱きしめた。マルトは僕を喜ばせるため、自分でもさっぱり意味が分からないこの言葉を何度も繰り返した。それは奴隷にも見られない従順さ、ただ霊媒だけが示すことのできる従順さだった。

 死期の近づいただらしない人間は、そのことに気付いたわけでもないのに、突然、身辺整理を始めるものだ。生活が一変する。書類を仕分けし、早寝早起きし、悪習を断つ。まわりの人びとはそれを喜ぶ。それだけに、突然の死はなんとも理不尽なものに思われる。これから幸せに生きようとしていたのに。