海の向こうで戦争が始まる 村上龍(270)

海の向こうで戦争が始まる

海の向こうで戦争が始まる

 象よ、なんという寂しい人生だ、いろんな事が色褪せわかりにくく醜悪に曖昧になった。何もはっきりしたことはない。俺は一体誰を愛しているのかさっぱりわからん、誰から愛されているのかもわからん、この寂しさを埋めてくれるものはあ何もない、巨大な象よ、俺の周りはお前そっくりだ、やたらに大きくどこに何があるのか全く分からん、死にかけている、はっきりと病んでいる、昔はそうではなかった。何もかもがはっきりしていた、自分が何を必要とするか、何が自分を必要とするか、はっきりしていたものだ、今は、お前の腐れている皮膚のように柔らかく手応えがない、昔は違ったぞ、徹の時代だった、病んだ象よ、今はお前の時代なのだ、空は曇っている。しかし魚の内臓は血に塗れて黒々と光る。一人の男が刀に突き刺した一塊の内臓を高々と灰色の空に掲げた。

 戦争は恐ろしい、みんながそう思っている、それは正しい、いつだって戦争は恐怖だ、私も怖い、小便を漏らしそうになる、しかし、考えてみろ、恐怖の裏側にはいつも何があった? 恐怖の向こうにあるものは何だ? それは熱狂と興奮と恍惚だ、戦争は退屈しない、きょう一日何をしようかなどと考える必要はない、人間の肉は柔らかいものだ、お前たちが考えているよりは遥かに柔らかいぞ、少なくとも、見飽きた女とのあれよりはいい気分になる、これだけは間違いがないことだ、銃剣が人間にめり込むのを見るのはたまらないことだ、オートバイで道路をふっとばすのとはわけが違う、地が噴き出す穴を見たことはないだろう? 女のあそこよりヌルヌルしていて、お前らも一度やると一生忘れられなくなるのさ、上級の学校へ行くために下らない授業を受けることももうないぞ、職を失わないようにと嫌な奴に頭を下げ毎日同じ乗り物で豚のように勤めに出る必要はもうなくなったんだ、女のために言葉を捜すことも泥酔して夜の町を歩くこともない、お前達はこの巨大なゴミ捨て場を美しい荒地に戻すんだ、ゴミ捨て場の腐れた土の上でのたうちまわるのはもうやめるんだ、大丈夫さ、大丈夫だよ、おい、お前やってみろ、あの子供を連れた女を刺してみろ、それで全てが新しく始まる、早くあの女の喉を刺してみろ、早くやらないと、もうすぐ全てが終わってしまうぞ。

「処女作なんて体験で書けるだろ? 二作目は、一作目で習得した技術と想像力で書ける。体験と想像力を使い果たしたところから作家の戦いは始まるんだから」